【四日市市】鵜の森公園で遺跡発掘調査が行われていました。発掘されたものとは?そして戦国時代に思いを馳せてみる…
先日鵜の森公園横の道路を歩いていたら、気になる看板を発見。「遺跡発掘調査を行っています」?!
期間は2021年6月30日(水)までとなっています。看板を見つけた日は6月30日、発掘調査の最終日でした。何が行われているのか気になって、公園に立ち寄ってみました。
公園に入り歩いていくと、何やら作業をされている現場を発見。
回り込んで別の角度から…。ショベルカーで何か掘っています。遺跡発掘調査に違いない!作業されている方にお話を聞いてみました。
「何か発掘されたんですか?」とお尋ねしたところ、鵜の森公園内にあった浜田城のお堀の遺構の範囲を調べているとのことでした。昔、下の写真の石垣の上に浜田城が建っていたんですね。
鵜の森公園も古くなり、現在地盤等の調査をされているということでした。この時掘っていた場所でもお堀の遺構がみられたとおっしゃっていました。
鵜の森神社の入口近くにはパネルが設置されていて、四日市の歴史等について学ぶことができます。浜田城についても記載がありました。
浜田城は、赤堀城主 田原景信(たはらかげのぶ)の三男忠秀(ただひで)によって、文明2年(1470年)に築かれました。永禄2年(1559年)、工藤右衛門祐治(すけはる)が浜田城攻略のために塩浜に上陸。その際、城主 田原遠江守(とうとうみのかみ)元網の息子 田原与右衛門重綱は、赤堀の援兵を得て追い散らしたといわれています。いわゆる塩浜合戦の始まりです。
それから10余年後、織田信長の家臣 瀧川一益(かずます)により攻略され、天正3年(1575年)6月6日、4代にわたる100年余りの歴史を閉じました。
「伊勢軍記」によれば、城主 元網の援軍要請に応じる者なく、わずか100余人の城兵にて防戦。落城寸前、元網は息子 重綱を城から逃し、城に火を放って自害したと伝えられています。重綱はその後、織田信雄(のぶかつ)に属して戦いましたが、天正12年(1584年)秀吉との美濃加賀野井城の戦いで討死。ここに浜田家は滅亡しました。
「山本の昔いま」によれば、鈴鹿市山本町に「濱田殿墓」とだけ刻まれた墓碑が今もあり、浜田城主 元網の墓と伝えられています。
今は穏やかな時間が流れ、子どもたちでにぎわっている鵜の森公園、戦国時代にはそんな悲しい物語があったのですね…。今の平和な世の中に感謝しつつ、戦国時代に思いを馳せたひとときとなりました。
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