【四日市市】東日本大震災から14年。現地で支援活動をされた元四日市市議会議員 伊藤昌志さんが、命を繋ぐために伝えたいこと。
東日本大震災、いわゆる「3.11」から明日で14年となります。最大震度7の揺れを記録し、大津波、福島第一原子力発電所の事故も発生。甚大な被害をもたらした地震でした。私たちの住む四日市市も震度3の揺れがありました。
元四日市市議会議員の伊藤昌志さんは、東日本大震災が起こった当時、四日市市から被災地に赴き支援活動を行いました。その後も支援活動を続ける伊藤さんにお話をうかがいました。

伊藤昌志さん。引き取ったばかりの保護犬と一緒に(提供:伊藤昌志さん)
四日市市羽津町に生まれ、会社員(近畿日本鉄道(株))の父(山手中)、パート職(四日市競輪)の母(富洲原中)の長男として生まれる。
羽津保育園・羽津幼稚園・羽津小学校・羽津中学校卒業
三重県立四日市高等学校卒業
順天堂大学体育学部健康学科(障害児教育ゼミ)卒業
三重大学大学院人文社会科学研究科(社会科学専攻)修了
陸上競技を(専門1500m)を大学、実業団まで続ける。
引退後は企業(八千代工業(株))に残り、総務・安全衛生分野に従事。31歳で独立。個人事業主として学習塾経営、企業や大学等で講師などを務め、子供のスポーツ、大人の健康づくりを推進するNPO法人を設立。2011東日本大震災のボランティア活動をきっかけに政治活動を始める。いなべ市・桑名市・川越町で健康体操を作成・監修するなど予防医療事業に携わる。
(伊藤昌志さんホームページより)
阪神淡路大震災での後悔
東日本大震災から遡ること16年、1995年4月末伊藤さんは兵庫県神戸市に向かっていました。勤務先の実業団で陸上競技をしており、陸上の国際大会に出場するためです。そしてそこで見た光景に衝撃を受けます。大会の前日、新神戸駅に降り立つと、駅前にはテント生活の人たちがいて、百貨店のビルは縦割れになり各階が剝き出しになったまま。1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災の爪痕を目の当たりにしたのでした。
自分はこんなことをしていて良いのだろうかと思ったものの、そのとき企業に勤めさらに実業団で陸上競技もしていた伊藤さんは、ボランティアに行くことなどは全く思いつきもしませんでした。しかしそのときに何も行動できなかったことがずっと心に引っかかっていたのです。
東日本大震災での支援活動
時は流れ、2011年3月11日。東日本大震災が起こったとき、伊藤さんは仕事の合間で自宅に戻ってきたところでした。今まで体験したことのないゆっくりと大きい揺れを感じ、只事ではないと思ったのだそうです。
伊藤さんに迷いはありませんでした。その頃は個人事業主として独立し時間に多少融通がきくようになっていたため、できる限りのことをしようと、経営している塾をスタッフに頼むなどしながら日にちを選んで支援活動を始めました。
宮城県石巻市を中心に何度も被災地に足を運び、主に被災地宅の屋内の泥の掃き出しに参加しました。被災地宅の畳の下には魚の死がいや貝殻などがたくさんあったそうです。当時の被災地の写真は残っておらず、「写真を撮る気持ちになれなかったのかも…。」と伊藤さんは振り返ります。
ボランティアの方はみんな一生懸命で、休憩もせず活動に取り組んでいたため、声を掛け合い20分ごとに休憩するようにしていたそうです。
また、自衛隊の方々の真摯な活動ぶりは、どこで何を見ていても強く伝わり、国民を助けるために本当に頑張っていただいてるんだと幾度となく涙がこぼれたのだそうです。
伊藤さんはこの支援活動をきっかけに、政治の道に進むことを決意します。現地の役所の方もボランティアの方も、お一人お一人は本当に死に物狂いで活動していましたが、日本の政治は国民の命や生活を守れる状態にないと体感したからだそうです。

三重県内で有志とともに、被災地への応援メッセージを集める活動をした際の写真。一番右が伊藤さん(提供:伊藤昌志さん)
被災地で本当に求められている支援を続けることの大切さ
伊藤さんは東日本大震災以降、大規模な災害が起こるたびに現地支援に赴き続けています。東日本大震災で得た経験を活かし、被災地で本当に求められている支援を行うことの大切さを実感しているといいます。
2018年9月に起こった北海道胆振東部地震の際には1週間ほど現地に滞在し、帰りは宮城県の被災地を見て回りました。

北海道胆振東部地震の際には、液状化が酷いため軽バンで現地支援に向かいました。前方には傾いた電柱が。(提供:伊藤昌志さん)

北海道胆振東部地震の爪痕が残る風景(提供:伊藤昌志さん)
まだ記憶に新しい能登半島地震の際にも、支援物資を現地に届けました。

支援物資を運ぶトラックの前で(提供:伊藤昌志さん)

能登半島地震の支援活動の際の1枚。左から、四日市市議会議員 水谷一未さん、松阪市議会議員 小川朋子さん、伊藤さん(提供:伊藤昌志さん)
命を繋ぐために。伊藤さんが伝えたいこと
伊藤さんは東日本大震災から何年も経った今も、被災者の方や当時活動した自衛隊の方の話を聞き続けています。その中で強く感じることは、まずは近くに住む人たちで生活を繋げる準備をしておかないといけないということだそうです。伊藤さんは次のように考えます。
災害時、命を繋ぐのに必要なのはお金ではありません。それぞれの地域で、人々が助け合い、自給自足できる環境を整えておくことが大切だと思います。防災グッズを一通り用意しておくことはもちろんですが、食料の備蓄とともに、プランターでトマトを育てるなど、田畑がなくても一人ひとりが少しでも食べ物を育て続けることが、どんな災害時にも対応でき、安心感にも繋がると思います。そして、希薄になっているご近所付き合い、これはどこに住んでいてもしていくべきだと思います。リアルで近くに住んでいる人たちとの愛が何より大切ではないでしょうか。
私たちの住む四日市市も、南海トラフ地震での被害が想定されています。伊藤さんは、災害が起こった時私たち一人ひとりができることを考え、行動することの大切さをこれからも伝え続けます。